瀧本幹也展「CROSSOVER」2018年2月に開催された展覧会に合わせて作品集を刊行。広告写真・作品・CM・映画、キャリアのスタートから20年に及ぶ膨大な活動の記録の中から、厳選した400点以上の作品を収録し500ページを超える本となった。全4章から構成され、広告の章「GRAPHIC」では、アートディレクターやスタッフ、キャストとの共同作業で生まれた写真を約220ページに渡り紹介。CMの章「COMMERCIAL FILM」では、写真家が撮影したCMというコンセプトの元、1枚の画としてページを構成した。コンテ順で並べてレイアウトすることが一般的だが、CMから切り出した1コマが見開きになり、また3段組みでレイアウトされたりと新しいCMの見せ方を提示した。作品の章「PERSONAL WORK」では初期の作品から最新作までの、10タイトルの中から厳選した作品をステートメントと併せて掲載。映画の章「CINEMA」では「そして父になる」「海街diary」「三度目の殺人」から映画本編の1シーンを記憶の結晶のように収めた。4つの世界をクロスオーバーしながら深化し続ける写真家の軌跡の一冊。福部明浩氏(クリエイティブディレクター・コピーライター)との対談も、収録されている。
以下本書に寄せて帯文よりーー 瀧本幹也の写真は新しい「世界を観る枠組み」を与えてくれる。当然、そこには破壊と創成という段階が含まれる。瀧本幹也による破壊は、謙虚と言ってもいいほど穏やかに行われる。しかし、それは確実に、我々の怠慢とも言っていいほどに放置してきた、自分の認識のある部分を直撃する。瀧本幹也による創成も静かである。そして、我々の内に、その新しい世界を受け容れる空間が既にあったことにも驚くのである。 ー 佐藤雅彦(東京藝術大学 大学院映像研究科教授)
カメラとの出会いは小学四年生の頃。家族旅行の写真係を任されていた。四歳上の兄は、当時父親が新しく買ってきた家庭用8mmフィルムカメラを使ったムービー班。僕はコンパクトカメラのスチール班という役割分担だった。その少し前に買ってもらった天体望遠鏡。思い返すと、観察することが好きな子どもだったと思う。じいっと、学校の授業でも顕微鏡を飽きずに覗いていた。幼心にも写真が趣味という自覚があり、小学五年生のときに貯めていた小遣いで一眼レフのカメラを手に入れた。フォーカスも調整できない簡素なつくりのコンパクトカメラでは、好きに撮れないもどかしさを感じていたから。思い通りの画を撮りたいというのが、動機だったと思う。何を撮りたいかはまだ漠然としており、相手は身近にいる家族や飼い犬や友だち。時間があれば自転車で出かけて気になった景色を撮った。ファインダー越しの見え方を観察して、太陽の光に正面から向かうとこう撮れる、横からだとこう......とあれこれと試した。ただ撮ることが楽しかった。小学校の卒業文集には「カメラマンになりたい」と書いている。本気で思っていたわけではないかもしれないが、中学生になっても趣味は続く。自分の部屋をスタジオ代わりに、背景となる壁に大きな布を貼って、アイランプを使っていろんな光をつくり、実験的なことをしていた。高校は一年で辞めている。普通科に進学したが、受験のための勉強には興味を持てなかった。馬鹿らしいと思っていた。大学に行き、企業に就職することが当たり前という大きな流れに疑問を持たずにいる環境に居心地の悪さがあった。そのまま過ごし、上手くいって大企業に入れたとして、その生活を想像しても明らかに自分の性格には向いていない。違うところで勝負したい......と言えばかっこよく聞こえるが、とにかく写真を撮っていたかった。自分に向いている道は写真や美術の方面に違いないという予感があった。卒業後に写真学校に進む選択肢もあったが、技術的な知識はすでに本を読みあさったり、それまでの撮影を通してある程度のことを習得していた。だとしたら、直接現場に出た方がもっと身体的に学んでいけるのではないかと、そのとき考えたのだ。例えば料理人の世界では、中学を卒業してすぐに店に弟子入りすることもあるだろう。料理学校に通ってから修業に入るのではなく、若いうちから下積みする。 そういったやり方が自分にも合っている気がした。二年生の六月、両親と担任に切り出し、学校を辞めた。とはいえ、さてどうしようかという状態だ。写真で生きて行くという気持ちだけが先行し、どんなジャンルの写真を志すのかさえよく見えていない。それで、実家の近所にあった写真館に雇ってもらえないかと話をしに行った。面識があったわけではない。表の看板には、インテリアや料理写真も撮りますと書いてあった。田舎の写真館なので、婚礼写真や証明写真、ホテルのレストランのメニュー写真。写真と名の付くものはすべてやっているところだった。暗室もあり、フィルムの現像もそこでおこなっていた。触ったことのない中判、大判のカメラもあり、きちんとしたストロボもあった。自分にとって宝の館のようだった。それまでのアイランプから、いきなりプロ仕様のストロボでメーターを測りながら光を組み立てるのだ。社員でもない、バイトとも言えない、月三万円程の給与の手伝いはやはり楽しかった。料理の撮影が多かったので、自然とそこに興味が湧いた。ある著名な料理写真家の下に就きたいと思い、写真館を辞めて東京に出てきた。十七歳のときだった。すでにお弟子さんが四人いるのでと丁重に断られ、10BANスタジオに入ることになる。いろんなジャンルの写真家たちが出入りするレンタルスタジオのアシスタントとして働くことで、視野を広げようとしたのだ。バブル景気が弾けた直後だったけれど、まだ業界には仕事が溢れている時代で、入れ替わり立ち替わりにファッションや音楽、広告、コマーシャルの現場を経験した。ここで自分は、広告写真に向いているんじゃないかと感じた。照明や美術のプロだったり、デザイナーだったり、たくさんの人が関わり、ひとつのヴィジュアルを実現させていく様に憧れを持った。けれど小さな疑問もあった。大掛かりな照明を組み、立派な美術セットをつくっても撮影したらすぐに解体して廃棄する。トレペやバック紙もふんだんに使っては惜しげもなく捨てていく。ショックだった。勿体ないと思った。そうしてどんどんまわしていかないと、一日に二本も三本もある撮影をこなしていけないことはわかっていたが、自分が消費主義の一端に組み込まれていくことが気になっていた。スタジオに入って一年が経った頃、「その先の日本へ。」という広告写真に衝撃を受ける。いったい誰が撮ったのだろうと調べ、藤井保という名前を知った。その人の仕事を見れば見るほど気持ちを揺さぶられた。普段自分が接していた表層的な華やかさをまとった広告写真とは明らかに異質なトーンで、重く身体の内面を突き刺すような写真だ。どうしたら広告でこんな写真が撮れるのだろう。興味が日に日に増す中、偶然にも藤井さんが僕のいたスタジオに初めて来て撮影をすることになった。なんとしても現場を見たいとシフトを代わってもらい、スタジオマンとして手伝った。藤井保という写真家は、世間や業界の時流とはまったく違うところで自分の写真を撮っている人だった。一見些末なことだが、例えばディフューザーとしてトレペではなく、和紙を使っていた。再び使用できるからと、持参した和紙をまた畳んで持ち帰る。そういう人だった。だからこそあの写真が撮れるのだと腑に落ちた。この人の下で働こうと勝手に決め、藤井さんに見てもらうための作品をつくることにした。ただ弟子にしてくださいと頼むだけでは、なんの自己紹介にもならないだろう。そのために仕事が終わったら作品撮りをし、手焼きのプリントをするためアパートに暗室をつくった。藤井保写真事務所に連絡をする日を半年後に設定した。その日までに普通免許も取らなければと教習所にも通った。十九歳になっていた。その日、仕事の昼休みに公衆電話から藤井事務所に電話を掛けると、「今は募集していませんから」とマネージャーにあっさり切られてしまった。困った。予定と違う。おかしいな、なんとかならないだろうかと五分後にもう一度掛けると、じゃあと、作品だけ見てもらえることになった。実際に会えたとき、緊張から何を話したかは憶えてない。何日からうちに来なさいと言ってもらえたことだけ耳に残っている。
藤井事務所で仕事への美意識、スタンスに触れながら、広告写真が生まれるまでの一連の流れに身を置くことができたのは幸せな時間だった。当時、ラフスケッチはほぼ手描きでやり取りされていた。 アートディレクターやデザイナーからFAXで流れてきたものを見て藤井さんが描き直し、またFAXで送り返す。絵だけでなく、広告でそれを伝えるならばこう撮る方がいいと、企画の本質となる考えを筆で切々と書き添えていた。藤井保は芯が一本通った人だった。自分の信念を写真で表現する、やはり業界の中では異質な存在だった。十代の終わりから二十代の始まりにかけてその強い個性に触れたことは、恵まれたと思うと同時に、この先自分はひとりでやっていくことができるのだろうかと気がかりにもなった。藤井事務所に在籍する期間は当時四年と決められていた。独立する一年前には、一ヶ月間の長い夏休みが与えられる。そこでモンゴルの少数民族を撮りに出かけた。その写真は藤井さんにも周囲のデザイナーにもいいと言ってもらえたが、しばらくは自分の中に仕舞っておこうと決めた。藤井保という大きな強いうねりから離れ、もっと自分の写真を模索していかなければと考えていた。しかし、「自分の写真」がそう簡単に撮れる筈がない。独立してしばらくは、次の一歩を迷っていた。それならば、一旦それは捨ててみる。広告には目的と伝えるべきことがある。それを自分の写真に引き寄せる力がまだないのであれば、逆にそちらに寄り添っていこうと発想を転換した。設定された世界の中で求められていることに応え、精度を高めていく術を考えることに力を注ごうと思った。運良く同世代の若いデザイナーたちと組む機会を得て、一緒に試行錯誤を続ける。そうしているうちにできあがったのが、としまえんプールの写真だ。うだるような暑い日に、渋谷駅に掲出されたB倍2連のポスターを見に行った。そこだけが涼しげだった。見た人は「プールに行きたい」と思うだろう。伝えたかったことが真っ直ぐにするりと入り込んでいく感触があった。発注された仕事に対しての最大限の正解を見つけ出すために、とことん突き詰め、あらゆる角度から検証するスタイルを続けてきたため、それが自分の写真のある種の表現になっていると感じる。けれど、 自分の写真がひとつの世界をつくり出した時点で、そこから逃れたいと思う。経験が増えるのは悪いことではないが、撮れば撮るほど過去に自分が撮った写真をなぞってしまう可能性は大きくなる。ライティングや機材など、テクニックの手数を知り過ぎると、ときにそれが先入観として目の前の仕事を邪魔することもあるため、もっとほかにふさわしい方法がないか、探そうと試みる。独立十年目の頃は、特にその傾向——自己模倣から逃れたい欲求が強かった。焦りにも似たその気持ちから徐々に自由になったのは、コマーシャルも撮るようになったから。グラフィックと比べチームワーク的な動きが求められる現場では、演出をはじめ、照明部や美術部、特機部などのプロフェッショナルな手法から得るものが多くあった。それぞれの部署の知恵をグラフィックにも応用してみると、写真が新しくなる。逆も然り。個人的に撮っていた作品も、その後取り組むことになる映画も、それぞれの領域が重なり合うことで引き出しが増えていき、自分の写真が解放されていくようだった。まるで細胞増殖のような前進の仕方だ。「自分の写真」をゼロにしたことで手に入れた自分の写真だった。広告では今、一枚の写真、15秒の映像が持つ表現の力で訴えかけるものがどんどん減っているように感じる。“仕掛け”によって見る人の懐に入り込むことを狙うあまり、逆にノイズ扱いされ、スキップされる一方だ。そういう時代の流れの中で、だからこそ逆に、一枚画の強さで見る人を振り向かせたいという思いが増していく。かつて広告が自立したひとつの表現として世の中を楽しませ、驚かせていた 時代のように。その方がストレートに“届く広告”となりえる可能性を感じ、広告のビジュアルを担う立場として使命感にも似た思いを抱いている。個人の制作活動では、そのときどきで撮っておきたい衝動に駆られた対象を撮る。初めてカメラを持った頃の気持ちに近いかもしれないが、自分が今考えていることを写真として見てみたいと思うのだ。 「SIGHTSEEING」は五、六年かけて撮ったシリーズであるが、普段の広告写真とは逆に、一切演出をしないと決めて世界中の観光地をめぐった。凱旋門、タージ・マハル、ピラミッド、ラッシュモア山、南極。わかりやすいランドマークの前に4×5をセットしてアングルだけ決め、ひっきりなしにやって来る観光客も一緒に切り取る。自分が決めたステージに次々とキャストがやって来ては去っていく。ドキュメント写真であるのにどこか虚像のような光景は、まるで今の社会そのものに感じた。こうした発見も、撮って初めて気付くことだった。一切演出をしないと言いつつ、実は念のため自分なりのラフは描いていく。広告的なプロセスだが、現地に着いて一日目はロケハンをし、作品をまとめたときの構成について考えたりもするが、撮影を始めると結局、自分の思っていたようにはならない。つまり、自分 の頭の中で想定していたのは所詮その範囲内の小さなことでしかなかったわけで、その場で偶然的な要素を呼び寄せる方が、うんと表現が飛躍する。この学びは、広告写真を撮る上でも生きている。百点を 取れるよう、事前準備は念入りにする。けれど、百点を目指しているわけではない。百二十点、もっと言うと百五十点を取るために、貪欲に現場で起こるあらゆることから飛躍の可能性を探る。是枝(裕和) 監督との映画の撮影現場でもその感覚に近い経験をすることがある。監督は、特に子どもを撮るときにはなかなかカットをかけない。そのシーンの水面下深くに隠れている、目に見えない何かが浮上してく るのを粘り強く待っているのかもしれない。子役からぱっと自然に出た言葉を拾い上げ、それに対して大人のキャストが反射的に反応した表情を捉える。そうしたやり取りはときに台本にある台詞よりもリアルだ。その偶然を生かすために前後のシーンを撮り直し、強度を高めていくこともあった。
もっと先へ。そう強く思いながら撮った写真はいつまでも自分の網膜に焼き付いている。展覧会や本にまとめるために、昔撮ったネガを十年、二十年という年月を経て再び印画紙に焼くとき、当時の記憶が ついさきほどのことのように思い浮かぶ。この部分をこうして焼き込もう......と、そのときと同じように考え、同じようにどきどきしている。自分がファインダーを覗いて撮ったあの瞬間の光がもう一度浮かび上がってくる様子は感動的ですらある。子どもの頃に趣味から始まった写真が、いまだに趣味なのである。仕事であるからそれなりの厄介事もあるが、写真に関わることをしているときは今もずっと飽きることなく楽しい。写真には自分のあらゆる感情が写り込み、こんなに心を揺さぶられるものはほかにない。もっと新しい写真を見てみたいと思う。目の前のものには満足できない病のようなものかもしれない。消えることがない本能的な初期衝動とも言える。自分も、他の誰も見たことのない写真をこの先どんな場所でどんな人と出会い撮れるだろうか。撮り続ける理由がここにある。ー 瀧本幹也This collection was published alongside Mikiya Takimoto’s exhibition CROSSOVER in February 2018. The book is a compilation of over 500 pages containing at least 400 carefully selected works from his vast oeuvre, which spans some 20 years from the start of his career and includes advertising photography, art works, commercials, and films. CROSSOVER comprises 4 sections. The section on advertising, called GRAPHIC, presents about 220 pages of photographs created through collaborations with art directors, staff, and cast members. In the section on commercials, called COMMERCIAL FILM, the pages are composed as individual pictures, based on the concept of the commercial being shot by a photographer. Arranging images in storyboard order is the norm, but Takimoto presents a new way of seeing commercials by cutting 1 frame from a commercial and re-presenting it in a 2-page spread or a 3-column layout. In the section on his artistic works, called PERSONAL WORK, Takimoto presents statements together with works that he has carefully selected from 10 titles covering everything from his early career works to his latest works. And in CINEMA, the section on his films, Takimoto carefully pulls together 1 scene from the original versions of Soshite Chichi ni Naru (Like Father, Like Son), Umimachi Diary (Our Little Sister), and Sandome no Satsujin (The Third Murder) like crystallized memories. This volume traces Takimoto’s arc as a photographer as it goes deeper and deeper, crossing over between the four worlds.
The quote below is from the book’s blurb—Mikiya Takimoto’s photographs give us a new “framework for seeing the world.” The stages of disruption and creation are of course included in that framework. Disruption at the hands of Mikiya Takimoto proceeds so gently that it could be called modest. Yet he scores a direct hit on what we are aware of, what we have left alone, perhaps to the point of neglect. Creation at the hands of Mikiya Takimoto also proceeds quietly. And it is surprising to find that inside us already exists the space where those new worlds are accommodated. Masahiko Sato (Professor, Graduate School of Film and New Media, Tokyo University of the Arts)